おまえってADHDじゃない?

おまえってADHDじゃない?

発達障害【大人のADHD,注意欠陥多動性障害】の30代社会人ほやすんたです。ADHDの特性ぽいよなあと思える診断前のエピソードや現在のことなどを4コマ漫画やイラストで書いてるブログです。Twitterアカウント→@hoyasunta

字が汚いのなんでだろ

f:id:tentekotekoteko:20171015201411p:plain

文字をきれいに書けません。特に気を抜いて書いている時は、特に汚くて時間が経過してから読み返すと自分でも読めない時があります。
人に渡す書類で、どうしても手書きでないとダメな時、なるべく丁寧に書いたつもりなのに渡してみたら「丁寧に書いてほしかったな…」と言われてしまったりすると「子供の頃からもっと気を付けてきれいにするよう頑張っておけばよかったな…」と思ったりもするけど後悔先にたたずです。

そんなことがあって、ある時、手書きで何かを書いている時の自分の姿勢がとても悪くなっていることが気づきました。最初は普通に書いているのですが、すぐにまるでものすごいド近眼の人のように紙に顔を近づけて書いているのです。
書くことに集中しようとするせいか、無意識のうちに目を近くに寄せてしまうみたいでした。

それで姿勢を正して書いてみると「やばい、こんなことに気づいてなかったのか…」という風に自分に呆れて唖然としてしまいました。それまで、紙との距離感が近すぎたせいで、全体像を見ないで書いていたことに気付いたのです。
書くことばかり集中して、俯瞰で見ようという意識がないため、文字や文章のバランスが全く見れていないので、きれいに書けなくて当然でした…。
文字が汚いこともさることながら、罫線のない紙やホワイトボードなどに書く時は、必ずやたら右斜めへ上がっていってしまうのも、全体を見ないで書いていたからだったのです。
たったこれだけ直しただけで、前よりきれいに書けるようになりました。
ただ、ちょっと気を抜くとすぐに紙の方へ吸い込まれて頭が下がっていってしまいますが。

ひとまず50記事

f:id:tentekotekoteko:20171012032006p:plain

今年の6月頭にブログを始めてから、ようやく50記事に辿り着きました。
更新速度としては相当遅い方だと思います。が、以前やっていたブログはなんと4年続けて更新したのはたったの15回だったので、それに比べたら成長したかなと…。

そもそも私は熱しやすく冷めやすく、その上忘れっぽいので、特に趣味的なことにおいてはなかなか継続することが難しい性分です。そんな人間なので、4カ月たっても一応更新を続けているのは珍しく、自分としてはちょっと驚きです。

ちなみに久々にブログを書き始めたのは理由がありまして、以前から想像して文章や絵を書くことがかなり苦手で、それが原因で困ることもあって、ブログを書いたりすれば少しは良い影響にならないかな、と思った事からでした。
ただいざ書こうと思っても想像力に乏しいので、書きたいことが全く出て来ませんでした。何か題材がないかと考えていくうちに、今の自分がいちばん悩んでることだったら書けるかもと思いあたりました。匿名とはいえ、悩み事を書き綴るのはどうかしら、と一瞬躊躇もありましたが、案外すらすらといくつか書けそうなものが思い浮かんだので、そのことに特化して書くことにしたのです。

現状のところ、書くことの練習にはもちろんなっていますが、ほかにもブログを始めて良かったことがありました。
2年前にADHDと診断されて以降、自分の特性についてはある程度理解をしているつもりでも、普段の生活の中で振り返ったりすることは余りありませんでした。ですが、改めてそういった事を書き起こしていくようになると前よりも明確に自覚できるようになりました。また、書く内容を探すために色々なことを思い返すので、当時はなんとも思っていなかった事の中に問題が隠されていたと新たに気づいたりして、その上でこれからはどうしていこうと考えるきっかけになったりもしています。そうした事は、始める前には思いもよらなかった良い副産物となっているなと感じています。

なので、とりあえずまだ書けそうなことがあるうちは、もうしばらく続けていきたいなと思います。
それなりにマイペースに。

靴ヒモがほどける問題

f:id:tentekotekoteko:20171007204140p:plain 

蝶々結びって上手にできますか?
私は結べることは結べるのですが、左右のバランスが悪かったり、立て結びになってしまったりして、なかなかきれいに結べません。
手先が不器用というのもあるんですけど、蝶々結びに関わらず、紐を結んだり物を組み立てたりすることをイメージして実行するのが苦手でして…。

でも、革靴やスニーカーの靴紐が大人になっても、きれいに結べていないのはカッコ悪いなあ、と一、二年くらい前にようやく思うようになって、改めて結び方をネットで調べたり練習したりして、ちょっと時間がかかってしまうものの、見た目はきれいに結べるようになったんです。
ところが、実際に歩いてみると、見た目はよいのになぜか前と変わらず、いつの間にやら、するりとほどけてしまうのです。というか、前と変わらずどころか、前よりもほどけやすくなってしまいました。
靴紐がほどけるのって、何度も続くと地味にじわじわと苛立ってくるんですよね。
ほどけた時にいちいち腰を下ろして結びなおすのも面倒だし、混雑してる電車や車の運転中にほどけると、すぐに結びなおすことができなかったり。それに、何より靴紐に足をひっかけて転びそうになると危ないし…。

それで結局のところ、最近は靴紐のある靴は買わないことにしました。
スニーカーは靴紐のないタイプで気に入るものをなかなか見つけられずにいたのですが、ようやく「これだー!」というものがスケッチャーズで見つかりました。
スケッチャーズのスニーカーは靴紐がないタイプの種類も多く、脱ぎ履きもとても楽だし、靴底もふかふかで沢山歩いても疲れにくいです。
あまりに歩きやすくて、ほとんど毎日履くようになって、すぐに履き潰しそうになってしまったので、もう1足をまたスケッチャーズで買い足してしまったくらい気に入ってます。

そういうわけで靴紐がほどける問題からはとりあえず解放されたのです。
もしまた靴紐で困ることがあったら、それはその時考えよう、と思ってます。

冷蔵庫には禁断の領域がいっぱい

f:id:tentekotekoteko:20171001123139p:plain

パンドラの箱、、、それは1度開けたら災いをもたらすと言われている決して開けてはいけない禁断の箱。そのような箱を私はたくさん持っているのです…冷蔵庫の中に。

だいたい私のパンドラの箱は主に特産品を扱うアンテナショップや海外の食料品関係を売ってるお店からやってきます。
話題の調味料や珍しい何かの瓶詰などについつい手が伸びて買ってしまうんですけど、2,3回使った後は、その存在すら忘れ、冷蔵庫の片隅に入れっぱなしになり、数か月後に思い出した時には恐怖で開けられずパンドラの箱となってしまうのです。
だから主に箱というよりは瓶が中心です。3年前のサイダーや食べるラー油的なもの、海外の激辛のタレ等々あって、ナンプラーに至っては中途半端に中身が残ったものがなぜか3本あります。
これらのことは普段はすっかり忘れてて、時々思い出してはいつか全部片づけようと思ってるのですが、開けた時どうなってるかわからない恐怖と中身を空けて洗わなければならないのを想像すると、どんどん先延ばしに…最悪です。
似たようなもので肉や野菜等を冷凍したまま数カ月放置してしまった場合もありますが、これは燃えるゴミの日に思い切ってそのまま捨てればいいだけですが、瓶の場合はそうはいかないのです。
下手したら観念するのはここを引っ越しする時かも…。

いったい君はどこを見ているんだ

f:id:tentekotekoteko:20170925053417p:plain

誰かと喋っている時、目を見て話す事を忘れます。というか、基本的に目はいつも反らし気味で、気が付くと顔すら見てないことが結構あります。

昔から目を見て話さないことを、時々指摘される事があったので、なるべくそうならないようにしてきたつもりでした。それに以前は営業職や色々な人と会う機会が多い仕事をしていたので、自分の会話力は普通程度だと思っていたところもありました。

ところが、ここ何年か人間関係で躓きを感じることが増えたように思います。
特に発達障害だとわかり自覚するようになってから、自分のコミュニケーションのやり方が様々な問題を抱えていることに気付きました。
それで改めてどんなところに問題点があるかを考えて見たところ、その中のひとつにこれがあると思いました。自分の行動を振り返ってみると、今現在も会話をしている時に相手から視線を外していることがかなり多いことがわかりました。

人と話すこと自体はそんなに苦手ではないと思っていたのですが、相手の目(もしくは顔)に視線を集中しつづけることが難しく、相手の話に興味があるなしに関わらず、いつのまにか全然違うところに視線が行っていることがよくあります。集中力に欠陥があるので、こうしたところにも、それが出ているのだと思います。
それと人の表情を読み取ることが上手くできずに失敗するかもしれないという恐れと自信のなさもそういう行動につながっている気もします。(自分が喋っていて自信がなくなってくる時も無意識に目を反らしがち…)
話している時に違うところに見ていると、話している内容からも意識が離れてしまったり、相手の表情の変化も会話の一部だから読み取る必要がある、と頭では理解しているつもりなのですが、実際に会話している時は、いつの間にかまったく違うところを見ています。

また、今まで自分が鈍感で気づかなかっただけで、これによって話してる相手に良くない印象を持たれたことも、沢山あったと思います。
話し相手に「あまり自分の話に興味がないんだ」と受け取られたり、とても不快な気持ちにさせていたこともあったでしょう。
自分が話している時でもそうなので、自信ないように見られて不信感を持たれてしまったんじゃないかと、後から後悔することもしばしばです。
また、人の顔を覚えるのも苦手なのですが、そもそも顔をあまり見てないから忘れてしまうのだと思います。

 会話を満足に成立させられないのは、苦しさを感じたり、自分の大人げなさにとても恥ずかしい気持ちになります。
また年を取るにつれて、人との付き合い方の難しさを実感することが増え、希薄な繋がりしか作れていない状態にジレンマを感じて辛くなる時があります。
相手を見て話せないという事は、そういう事態を招いている大きな原因のひとつになっていると思います。

コミュニケーションの問題で直したいところは他にも色々あるけれど、これは特に早く直さないと、と思っています(できる人には当たり前のことなのでしょうが…)。
今の仕事やプライベートの環境だと色々な人と話す機会が少なくなってしまっていて、人の目が見られないくせを更に助長させてしまっている気がしています。
なので、意識的に人と話す機会を増やして「相手の目・表情を見ることを意識して話す」を実行して慣れていこうと思っています。
普通にお互いが楽しい会話ができるようになりたい。

気持ちがいっぱいになったら特急電車みたいに動き続けるよ

f:id:tentekotekoteko:20170918223011p:plain

予想外に良い映画に出会ってしまった。

つい先日、前からちょっと気になっていた「新感染」という映画を観てきました。
前情報はゾンビ映画ってことくらいしか知らなかったのですが、観だしたら怒涛の展開と人間ドラマの嵐に圧倒され、そろそろドラマが終結に向かうのかな、なんて思っていたら裏切ってくるしで、最後の最後まで興奮しっぱなしに。
ゾンビ映画って良い意味のB級っぽい作品が多いイメージがあるので、そういうタイプの映画を観るつもりで行ったら、全く予想してなかったA級エンターテインメントで…ああ、本当に映画館で観ることが出来て良かったなあ。

映画を観ることが好きな割に、面白いと思っている映画を観ている時でも鑑賞中に全然違う事を考えてしまって、場面やセリフを見逃したり、聞き逃したりしてしまうことが、ちょこちょこあります。ですが、「新感染」を観た時はめずらしくほぼ全て集中して観られて、鑑賞後は映画のことで頭がいっぱいになっていました。
鑑賞後、次の予定まで時間があったので、喫茶店にでも寄るつもりでいたのに、興奮MAX状態になっていた私はなんだかいてもたっていられなくなり、どこにも寄ることなく、気が付くと、そのまま2時間くらい街をさまよい歩いていました(まるで私がゾンビ)。
高ぶった感情の逃がしどころがわからなくなった結果、体を動かすことで発散させたかったのだと思います。心の中は、どきどきそわそわがずっと続いていて、全く落ち着かずエンジンがかかりっぱなしのようになっていたのです。

今までを思い返すと、映画鑑賞の時に限らず、同じように感情が高ぶりすぎた後、いつのまにか沢山歩いているってことは何度もありました。嬉しい時のほかに、イライラしてた時、悲しい時、怒っている時など結構いろいろな場面で歩いています。
「どんな悩みも10キロ歩いたあたりでどうでもよくなる」みたいに思っていた時もあって、以前は頭の中が悩みでいっぱいになると意図的に2,3時間歩き続けていた時がありました。そうしてると、だんだんと落ち着いてきて、ようやくフラットな状態で冷静になれる感じがあります。
頭の切り替えが下手なので、そうやって解消させようとしている気がします。

そういえばADHDの問診で「不適切な状況で高い所に上ったり、走り回ったりするか」という項目があって、「子供ならともかく、自分にはこの症状は関係ないな」と思っていたんですけど、もしかして私が歩き回ってしまうのも、これと似たようなことなんじゃないかなあ?と思います。

大人と子供を行ったり来たり

f:id:tentekotekoteko:20170918225502p:plain

ADHDは精神年齢が実年齢より若くて、子供っぽいところがあったりする場合があると聞きましたが、私の場合、本当に子供みたいな話し方や振舞まい方になってる時があります。
主にどんな状況でそうなっているかというと、例えば、頭を使いすぎて疲れ切った後とか、心を許している相手と頭を使わない話をしている時、ただただ可愛い動物や映像などを見ている時、ぼーっとしてる時とかになりやすい気がします。
こういう時は人にどう思われるかとか全く考えていなくて、心の中にいるもう一人の子供の自分が喋っているようなかんじです。別に人格が変わったわけじゃないんで、自分は自分なのですけど、ただ確実に普段の自分と違う感じがあります。子供のようになってる時は複雑なことは考えないので、頭がとてもリラックスしているなあと思います。

これが本来の自分を突き詰めた姿なのかも、と思う一方で、色々考えてる時の自分もやっぱり素のような気もするので、どちらも本当の自分なんだと思います。子供から大人へ成長していく過程で、本来なら変わっていったり無くなっていく部分が残ったまま大人になってしまったのかもしれません。

そんな子供みたいな喋り方がつい人前で出てしまうと、「ぶりっ子」だと言われることがあるんですけど、私としては全くそんな気はないのです。

ただ自分の頭の中がゆるくなってるだけで、自分がかわいいと思われたいなんて気持ちは微塵もないのですが…。

改めてぶりっ子の意味を説明すると、女性が男性の前で無知なふりをして甘えて女らしさを出して媚びる姿を言うそうです。
おばさんのそうした姿と心理状態を想像するだけで恐怖じゃないですか。(でも私の姿がそう見えてるわけですから、恐怖を与えてることには変わりが無いのですけどね…)

 ちなみに前に「ぶりっ子じゃなければ何なのか」と聞かれたときに「ハイスクール奇面組の一堂零たちが大きくなったり小さくなったりするのと同じようなものだ」と言ったら、なんか腑に落ちたようでものすごい納得してました。
わかる世代が限られる例えですけど、ほかにこれより良い例えが今のところ見つからないんですよねえ。