おまえってADHDじゃない?

おまえってADHDじゃない?

発達障害【大人のADHD,注意欠陥多動性障害】持ちのほやすんたです。 診断前のエピソードや現在の日々のことなどを4コマ漫画やイラストで書いてるブログです。 Twitterアカウント→@hoyasunta

靴ヒモがほどける問題

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蝶々結びって上手にできますか?
私は結べることは結べるのですが、左右のバランスが悪かったり、立て結びになってしまったりして、なかなかきれいに結べません。
手先が不器用というのもあるんですけど、蝶々結びに関わらず、紐を結んだり物を組み立てたりすることをイメージして実行するのが苦手でして…。

でも、革靴やスニーカーの靴紐が大人になっても、きれいに結べていないのはカッコ悪いなあ、と一、二年くらい前にようやく思うようになって、改めて結び方をネットで調べたり練習したりして、ちょっと時間がかかってしまうものの、見た目はきれいに結べるようになったんです。
ところが、実際に歩いてみると、見た目はよいのになぜか前と変わらず、いつの間にやら、するりとほどけてしまうのです。というか、前と変わらずどころか、前よりもほどけやすくなってしまいました。
靴紐がほどけるのって、何度も続くと地味にじわじわと苛立ってくるんですよね。
ほどけた時にいちいち腰を下ろして結びなおすのも面倒だし、混雑してる電車や車の運転中にほどけると、すぐに結びなおすことができなかったり。それに、何より靴紐に足をひっかけて転びそうになると危ないし…。

それで結局のところ、最近は靴紐のある靴は買わないことにしました。
スニーカーは靴紐のないタイプで気に入るものをなかなか見つけられずにいたのですが、ようやく「これだー!」というものがスケッチャーズで見つかりました。
スケッチャーズのスニーカーは靴紐がないタイプの種類も多く、脱ぎ履きもとても楽だし、靴底もふかふかで沢山歩いても疲れにくいです。
あまりに歩きやすくて、ほとんど毎日履くようになって、すぐに履き潰しそうになってしまったので、もう1足をまたスケッチャーズで買い足してしまったくらい気に入ってます。

そういうわけで靴紐がほどける問題からはとりあえず解放されたのです。
もしまた靴紐で困ることがあったら、それはその時考えよう、と思ってます。

冷蔵庫には禁断の領域がいっぱい

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パンドラの箱、、、それは1度開けたら災いをもたらすと言われている決して開けてはいけない禁断の箱。そのような箱を私はたくさん持っているのです…冷蔵庫の中に。

だいたい私のパンドラの箱は主に特産品を扱うアンテナショップや海外の食料品関係を売ってるお店からやってきます。
話題の調味料や珍しい何かの瓶詰などについつい手が伸びて買ってしまうんですけど、2,3回使った後は、その存在すら忘れ、冷蔵庫の片隅に入れっぱなしになり、数か月後に思い出した時には恐怖で開けられずパンドラの箱となってしまうのです。
だから主に箱というよりは瓶が中心です。3年前のサイダーや食べるラー油的なもの、海外の激辛のタレ等々あって、ナンプラーに至っては中途半端に中身が残ったものがなぜか3本あります。
これらのことは普段はすっかり忘れてて、時々思い出してはいつか全部片づけようと思ってるのですが、開けた時どうなってるかわからない恐怖と中身を空けて洗わなければならないのを想像すると、どんどん先延ばしに…最悪です。
似たようなもので肉や野菜等を冷凍したまま数カ月放置してしまった場合もありますが、これは燃えるゴミの日に思い切ってそのまま捨てればいいだけですが、瓶の場合はそうはいかないのです。
下手したら観念するのはここを引っ越しする時かも…。

いったい君はどこを見ているんだ

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誰かと喋っている時、目を見て話す事を忘れます。というか、基本的に目はいつも反らし気味で、気が付くと顔すら見てないことが結構あります。

昔から目を見て話さないことを、時々指摘される事があったので、なるべくそうならないようにしてきたつもりでした。それに以前は営業職や色々な人と会う機会が多い仕事をしていたので、自分の会話力は普通程度だと思っていたところもありました。

ところが、ここ何年か人間関係で躓きを感じることが増えたように思います。
特に発達障害だとわかり自覚するようになってから、自分のコミュニケーションのやり方が様々な問題を抱えていることに気付きました。
それで改めてどんなところに問題点があるかを考えて見たところ、その中のひとつにこれがあると思いました。自分の行動を振り返ってみると、今現在も会話をしている時に相手から視線を外していることがかなり多いことがわかりました。

人と話すこと自体はそんなに苦手ではないと思っていたのですが、相手の目(もしくは顔)に視線を集中しつづけることが難しく、相手の話に興味があるなしに関わらず、いつのまにか全然違うところに視線が行っていることがよくあります。集中力に欠陥があるので、こうしたところにも、それが出ているのだと思います。
それと人の表情を読み取ることが上手くできずに失敗するかもしれないという恐れと自信のなさもそういう行動につながっている気もします。(自分が喋っていて自信がなくなってくる時も無意識に目を反らしがち…)
話している時に違うところに見ていると、話している内容からも意識が離れてしまったり、相手の表情の変化も会話の一部だから読み取る必要がある、と頭では理解しているつもりなのですが、実際に会話している時は、いつの間にかまったく違うところを見ています。

また、今まで自分が鈍感で気づかなかっただけで、これによって話してる相手に良くない印象を持たれたことも、沢山あったと思います。
話し相手に「あまり自分の話に興味がないんだ」と受け取られたり、とても不快な気持ちにさせていたこともあったでしょう。
自分が話している時でもそうなので、自信ないように見られて不信感を持たれてしまったんじゃないかと、後から後悔することもしばしばです。
また、人の顔を覚えるのも苦手なのですが、そもそも顔をあまり見てないから忘れてしまうのだと思います。

 会話を満足に成立させられないのは、苦しさを感じたり、自分の大人げなさにとても恥ずかしい気持ちになります。
また年を取るにつれて、人との付き合い方の難しさを実感することが増え、希薄な繋がりしか作れていない状態にジレンマを感じて辛くなる時があります。
相手を見て話せないという事は、そういう事態を招いている大きな原因のひとつになっていると思います。

コミュニケーションの問題で直したいところは他にも色々あるけれど、これは特に早く直さないと、と思っています(できる人には当たり前のことなのでしょうが…)。
今の仕事やプライベートの環境だと色々な人と話す機会が少なくなってしまっていて、人の目が見られないくせを更に助長させてしまっている気がしています。
なので、意識的に人と話す機会を増やして「相手の目・表情を見ることを意識して話す」を実行して慣れていこうと思っています。
普通にお互いが楽しい会話ができるようになりたい。

気持ちがいっぱいになったら特急電車みたいに動き続けるよ

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予想外に良い映画に出会ってしまった。

つい先日、前からちょっと気になっていた「新感染」という映画を観てきました。
前情報はゾンビ映画ってことくらいしか知らなかったのですが、観だしたら怒涛の展開と人間ドラマの嵐に圧倒され、そろそろドラマが終結に向かうのかな、なんて思っていたら裏切ってくるしで、最後の最後まで興奮しっぱなしに。
ゾンビ映画って良い意味のB級っぽい作品が多いイメージがあるので、そういうタイプの映画を観るつもりで行ったら、全く予想してなかったA級エンターテインメントで…ああ、本当に映画館で観ることが出来て良かったなあ。

映画を観ることが好きな割に、面白いと思っている映画を観ている時でも鑑賞中に全然違う事を考えてしまって、場面やセリフを見逃したり、聞き逃したりしてしまうことが、ちょこちょこあります。ですが、「新感染」を観た時はめずらしくほぼ全て集中して観られて、鑑賞後は映画のことで頭がいっぱいになっていました。
鑑賞後、次の予定まで時間があったので、喫茶店にでも寄るつもりでいたのに、興奮MAX状態になっていた私はなんだかいてもたっていられなくなり、どこにも寄ることなく、気が付くと、そのまま2時間くらい街をさまよい歩いていました(まるで私がゾンビ)。
高ぶった感情の逃がしどころがわからなくなった結果、体を動かすことで発散させたかったのだと思います。心の中は、どきどきそわそわがずっと続いていて、全く落ち着かずエンジンがかかりっぱなしのようになっていたのです。

今までを思い返すと、映画鑑賞の時に限らず、同じように感情が高ぶりすぎた後、いつのまにか沢山歩いているってことは何度もありました。嬉しい時のほかに、イライラしてた時、悲しい時、怒っている時など結構いろいろな場面で歩いています。
「どんな悩みも10キロ歩いたあたりでどうでもよくなる」みたいに思っていた時もあって、以前は頭の中が悩みでいっぱいになると意図的に2,3時間歩き続けていた時がありました。そうしてると、だんだんと落ち着いてきて、ようやくフラットな状態で冷静になれる感じがあります。
頭の切り替えが下手なので、そうやって解消させようとしている気がします。

そういえばADHDの問診で「不適切な状況で高い所に上ったり、走り回ったりするか」という項目があって、「子供ならともかく、自分にはこの症状は関係ないな」と思っていたんですけど、もしかして私が歩き回ってしまうのも、これと似たようなことなんじゃないかなあ?と思います。

大人と子供を行ったり来たり

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ADHDは精神年齢が実年齢より若くて、子供っぽいところがあったりする場合があると聞きましたが、私の場合、本当に子供みたいな話し方や振舞まい方になってる時があります。
主にどんな状況でそうなっているかというと、例えば、頭を使いすぎて疲れ切った後とか、心を許している相手と頭を使わない話をしている時、ただただ可愛い動物や映像などを見ている時、ぼーっとしてる時とかになりやすい気がします。
こういう時は人にどう思われるかとか全く考えていなくて、心の中にいるもう一人の子供の自分が喋っているようなかんじです。別に人格が変わったわけじゃないんで、自分は自分なのですけど、ただ確実に普段の自分と違う感じがあります。子供のようになってる時は複雑なことは考えないので、頭がとてもリラックスしているなあと思います。

これが本来の自分を突き詰めた姿なのかも、と思う一方で、色々考えてる時の自分もやっぱり素のような気もするので、どちらも本当の自分なんだと思います。子供から大人へ成長していく過程で、本来なら変わっていったり無くなっていく部分が残ったまま大人になってしまったのかもしれません。

そんな子供みたいな喋り方がつい人前で出てしまうと、「ぶりっ子」だと言われることがあるんですけど、私としては全くそんな気はないのです。

ただ自分の頭の中がゆるくなってるだけで、自分がかわいいと思われたいなんて気持ちは微塵もないのですが…。

改めてぶりっ子の意味を説明すると、女性が男性の前で無知なふりをして甘えて女らしさを出して媚びる姿を言うそうです。
おばさんのそうした姿と心理状態を想像するだけで恐怖じゃないですか。(でも私の姿がそう見えてるわけですから、恐怖を与えてることには変わりが無いのですけどね…)

 ちなみに前に「ぶりっ子じゃなければ何なのか」と聞かれたときに「ハイスクール奇面組の一堂零たちが大きくなったり小さくなったりするのと同じようなものだ」と言ったら、なんか腑に落ちたようでものすごい納得してました。
わかる世代が限られる例えですけど、ほかにこれより良い例えが今のところ見つからないんですよねえ。

文明の利器ばんざい!

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最近、スマホによって自分の生活力が上げられているなあと、しみじみ思います。

忘れん坊のエキスパートとしては、特にiPhoneのリマインダー機能は今や日々欠かせない存在になっています。
個々に項目を自由に入力して、指定の曜日や日時にアラームが設定できるので、毎日飲む薬の時間、宅配便の到着日、ゴミの日、月1の家賃支払日、半年に1回の使い捨てコンタクトレンズ受取日などなど色々な予定を入力しています。
こうして設定したアラームのおかげで今までついつい忘れがちだったことを思い出せるようになりました。
他にも習慣づけたい事とか目標のようなこととかも毎日決まった日時にお知らせするようにしています。こうしておくと自己暗示で身に付きやすくなる気がします、こういったことは本当にすぐ忘れてしまうので…。

また別のアプリでは、メモ代わりにカメラ機能をよく使用しています。
自分で書いたノートやメモのほか、印刷物などの情報として必要な部分だけ撮影して持ち歩いています。手帳を持ち歩いていた時もありましたが、荷物は軽くしたいし、手帳自体を忘れることもあるので止めました。そのまま写せるものはそうした方が書き間違えがないから安心です。

それとやっぱり地図アプリも欠かせません。方向音痴ですぐ道を間違えたりするので、今まで数えきれないくらい助けられています。

あらためて、自分が主に活用しているアプリを見直してみると、標準搭載されているアプリがほとんどです。ダウンロードしたアプリも結構使ってみるんですけど、いつのまにやら使わなくなってしまいます。(そして、そうしたアプリはそのまま放置され、私のスマホのホーム画面には荒廃したアプリ墓場が広がっています…)

ガラケーからスマホに切り替えたのは7年も前ですが、自分がADHDだとわかってからの方が、意識的にスマホの活用方法を考えるようになりました。
そうなってからの方が確実に生きやすくなったなー、と実感しています。
便利なものにあまり頼りすぎるのは良くないという考えもあるかもしれないけど、大人になっちゃったら時間と体力には限りがあるんだし、使えるものはとことん使っていった方が良いと思っています。

共感求めすぎてこわいよ

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前回のブログで犬好きの事を書いていて思い出したのですが、高校生の時にこんなことがありました。
親の答えはどう考えてもまともで、私が言ってることがおかしい。
この時に大号泣して、親に相当怒られました。そりゃそうだ。
そもそも質問が幼稚すぎて、親も困惑して説教もしたくなるのもわかります。

あの頃は、母親に対して依存が強くて、自分の好意のある人には自分と同じように好きなものを好きでいてほしい、共感したいという気持ちだったんだと思います。
この親に依存する気持ちは高校を卒業して実家から数百キロ離れたところで生活するようになって、なくなりました。
ただ、親離れはできたものの、他の人と気持ちを共感したいという気持ちは、大人になっても人より強い気がします。
人に自分の気持ちがうまく伝えられないとか、人間関係を繋いでいくことができないとかいう気持ちが常々根底にあるからだと思うのですが、相手との感覚の違いが原因で感情的になってしまうことがよくあります(最近は感情のコントロールが大分できるようになってきたので、少なくはなりましたが)。
結局の所、共感を求めすぎる自分は自己中心的なんだなと思います。
「人は人、自分は自分」というふうに自然に思えるようになりたい、がんばろ。