ADHDという言葉を初めて知った日
この時の事が、このブログのタイトルの由来になってます。
その時に聞いた症状は、確かに私にあてはまるものばかりだったと思います。
気になってADHDについて、ちょっと調べたりはしたのですが、当時わかったことは、参考になるような本なんて全然出てないし、専門医はほとんどいなくて、治療法はカウンセリングが主で、薬はないということでした。
(もしかしたら子供への投薬は認可されたものがあったかもしれませんが、成人に対しては認められていませんでした。)
それで私が思ったのは「専門医を探すだけでも大変そうだし、そもそもカウンセリングの治療って効果があるの?この『症状』って言われてるものって性格とか育ちによるもんじゃないの?もし診療を受けれるようなところが見つかってもお金が結構かかるんじゃないの?それで診断がもしADHDじゃなかったら、ただのお金の無駄でしょ。」ということと、「そのよくわからない病気みたいな『ADHD』だと診断されて、もし治療が上手くいかなかったら世間的にどう思われるかわからない、怖い」ということでした。
また当時は、精神的な病気に対しても理解が全然足りなかったので、そういう病院に行くこと自体に相当抵抗がありました。
そういうわけで、私は全面否定し絶対に認めませんでした。
その後、社会人として世の中に接するようになってから、社会と自分とのずれを感じることが結構あり、いろいろ困った状況や自分の望んでいない結果になったりする場面に直面することが増えていきました。
そして十数年がたった頃、ある時におおきな失敗をして「なんで自分はこうなんだ。その場かぎりではどうにかごまかせたとしても、この先の人生を自立して生きていくことが難しくなってしまうかもしれない…」と相当悩んでいた私は、あの時に言われた「ADHDなんじゃないか」と言われたことを思い出したのです。
2年前にはもうADHDについての情報がかなり増えていて、治療も進んで診療できる病院が増えていることがわかり、遂に病院を訪れ診断される結果に至りました。
「もしも十数年前のあの時に素直に聞いて、治療を受けていたら、もっと全然違った生き方になってたかもしれないなあ…」という気持ちにもなりますが、そっちを選ばなかったおかげで経験できたり感じられたことがたくさんあったなあ、と思えるところもあるので、これはこれでわるくない生き方できてるかなーという気がしてます。
現実が見えてしまった‼
ADHDの診断を受けて以降、専用の薬を飲む治療を続けてます。
薬の効き方って個人差はあるとは思うんですが、私の場合は良い方向に効いている気がしてます。
効果を感じてる部分はいろいろあって、その中でも一番変化を感じたのは今までぼんやりとしか見てなかったものが、はっきりと見えるようになったことでした。
それまで、はっきり見えなかったのは視力が弱いからということではもちろんなく、視界にばっちり入ってても脳が認識できていなかったからみたいです。
常時そんな調子なので部屋が散らかってても、見えてないので不快に感じることがあまりなく、それが片付けられない理由のひとつなのかもと思います。
それが、薬を飲むようになってからは、出しっぱなしにしていた物に気がつくようになり、以前に比べるとだいぶ片づけられるようになりました。
そして、ほかにも気付いてしまったことがあります。
見えてなかったのは散らかった場所だけではなく「自分の顔」もだったと…!
私は若い頃から、日常的に化粧をするという習慣がありませんでした。
20代の頃から時折「童顔」とか「肌がきれい」と言われることがあったので、自分は若く見えるので化粧をしなくても大丈夫という過信がありました。それに加えて化粧道具が複雑すぎてどこから手を付けていいか分かってなくて「化粧しなくても困ってないからいいや」とそのまま放置し、年をとってしまったのです。
まともに化粧したのは就職面接の時と冠婚葬祭くらいで、仕事だろうとデートだろうと、一年ほど前までは、ずっとほぼ365日すっぴんでした。
ある日のことでした。
部屋の片づけが以前よりもスムーズにできるようになってきた頃、汚れてきた姿見を拭きながら、そこに映る自分の顔を見て愕然としました。
目の下はクマがばっちり刻まれてるし、肌もくすんでいてシミもいっぱいあって顔色悪いし、顔もたるんできてて、ほうれい線が…。
「若くない!若さがないよ!おばちゃんじゃん!そりゃそうだ‼ 3×才はおばちゃんだ!やばい!もうこのまま放置したら犯罪だわ!」
と思った私は、今更ながら慌てて化粧品一式揃え、ネットで化粧の仕方を付け焼刃に覚えたのでした。これにより以降、最低限の化粧を毎日するようになりました。
この話は、急に老けてそれに気づいたというということではもちろんなく、自分の顔がそれまでちゃんと見えてなかったので、着々と進んでいた劣化に全く気付けてなかったのです…。
20代のうちならともかく、外で働いてるのに30いくつにもなって全然化粧しないっていないもんな…普通…。
アンガーノーマネージメント
理不尽だとか気に入らないと感じることがあると些細なことでも怒りスイッチが入ってしまい、なかなか収まりがつかず長い時は1日中怒りモードが続いていることがあります。
スイッチがONの間は、それで頭がいっぱいになり他の事を考えることはほとんどできなくなります。
もとがチキンハートなので怒りを人やものにぶつけることはほとんどなくて、ただただ頭の中で怒りの感情が沸騰し続けます。とはいえ、その状態の時に近くにいる人には私のとげとげしい嫌な雰囲気は伝わって不快な気持ちにさせているかもしれないし、私自身もそれが治まった頃には心身ともに結構疲労が溜まっていて大変です。
自分がADHDと知らなかった頃は、「こんなにも怒りつづける原因は、きっかけとなった事柄や人に全く共感できないからで、それくらい怒るのも当然だ」と思っている節がありました。
ですが、その認識は間違いで、ADHDであるがゆえに感情のコントロールがうまくいっていないせいでした。普通の人だったら怒りの感情が沸いても、いつまでも引きずらず気持ちを切り替たりするのでしょうが、私にはそれが難しく怒りに支配されてしまうのです。
それに気づいてからは、しょうもないことで怒り続けて時間と体力を消耗するのはもったいないので、自分なりに怒らない方法の本を読んで、実際に取り入れられそうなものは試してみるようにしました。それと薬物療法のおかげもあって、怒りスイッチはかなりコントロールできるようになり、たまにスイッチが入ってたとしても気持ちを上手く切り替えられるようになってきました。
今は日常を過ごすことが前に比べて、少し楽になったような気がしてます。
ちなみに私が一番自分の怒りでしょうもないなと思ったのは、「映画館で本編上映前に流れる啓蒙CM『NO MORE 映画泥棒』で、違法ダウンロードを摘発されて驚いてる女性の表情が受け入れられない」というものです(今はシリーズが変わったので流れてません)。このCMが流れると、本編が始まってもしばらく頭の中に入って来ないので映画を見に行く度に辛かった…。
今はこの類の映像を見ても全く心がかき乱れるようなことはなくなって、小さなことですけどしみじみ嬉しいです。
抑えられないこの気持ち
何かに集中して作業している時に、洋画を原語音声でTV再生しておくことがあります。
日本語オンリーの私には、映像は観ずに聞いてるだけなら、内容が全くわからないのでBGMとして丁度良いかんじに聞こえてくるのです。
この時も映像は全く目に入っておらず、作業に集中していたので、ほとんど聞いていないに等しいくらいだったと思うんですが、インド映画ではおなじみのミュージカルシーンの音楽がいつのまにか脳を刺激していたみたいです。
私がよく行くインドカレー屋では、店内でいつもインド映画が再生されてて、それを聞きながらカレー食べてるというのが常なんです。
それで、いつの間にか頭の中に「インド映画音楽=インドカレーはどこ?」というパブロフの犬現象的な構図が出来上がってしまっていたようです。